木曜日から福岡に来ていて、木・金曜日と仕事で今日(土曜日)は延泊して
唐津を観光した。
今、福岡空港のVIPラウンジ・・・、18:35分の飛行機だが未だ未だ時間が有るが、もう観光する体力も無くぐつたりしている。 本当は太宰府天満宮に行って、今度大学受験の息子の祈願でもしてこようと思っていたが、体がだるく熱っぽい、のど痛いし頭痛いし・・、風邪で熱が有る。
唐津市
旧
東松浦郡。
唐津藩の城下町を前身とし、
佐賀市に次ぐ人口規模を有する佐賀県第二の都市。
唐津湾に注ぐ
松浦川河口を中心に市街地が形成されている。唐津神社の秋季例大祭である
唐津くんちや特別名勝の
虹の松原、呼子朝市などで有名で、広大な面積に多数の観光資源を有する。県都のある
佐賀都市圏とは歴史的・文化的観点から馴染みが薄く、比較的
福岡都市圏との馴染みが強い。
2005年に周辺の
東松浦郡呼子町、
鎮西町、
肥前町、
相知町、
厳木町、
浜玉町、
北波多村と合併(新設合併)して新たに唐津市となった。また、2006年に
七山村を編入した。
経済圏である
唐津都市圏は唐津市及び玄海町で約13万人強の人口を擁しており大部分を唐津市が占めるが、近隣の
福岡都市圏、
佐賀都市圏方面に通勤・通学する市民も多い(旧浜玉町域は
福岡都市圏の5%通勤通学圏、旧厳木町域は
佐賀都市圏の10%通勤通学圏である)。
唐津城
唐津市街の北部に位置し、
松浦川が
唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置する。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の
平山城である。北面は唐津湾に面するため、
海城ともいわれ、
萩城とともに現在も直接海にそびえる
石垣がみられる。松浦川の右岸には国指定特別
名勝の
虹の松原が広がり、満島山を中心に鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれる。
江戸時代初期の慶長7年(1602年)に築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。
廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸御殿跡に
早稲田佐賀中学校・高等学校(仮称)が建設される予定で、その他二の丸・三の丸跡は市街化している。現存する遺構としては石垣、堀があり、
模擬天守、復興の櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されている。
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。
二の丸に藩庁御殿が建築され、三の丸は侍屋敷となっていた。
天守は天守台までしか建築されなかった。築城当初は天守が存在していたといわれることもあるが、
寛永4年(
1627年)の
幕府の記録には天守の存在は記されていないほか、天守の存在を示す資料は確認されていない。天守を描いた絵図や設計図もなく、現在の天守は慶長期の様式で建築されていたと想定して昭和41年(1966年)に造られたものである。
広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長けており、
防風林として松原の保護育成を行った。これが
日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。
広高の子の
堅高は、天草領に構えていた
富岡城が
島原の乱の際に
一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は、
正保4年(
1647年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。
以後、
譜代大名5家が入れ替わった。寺沢氏が
改易となると一時
天領となったが、
慶安元年(
1649年)
播磨国明石城主
大久保忠職が城主となった。
延宝6年(
1678年)大久保氏が
下総国佐倉城に転出し、代わって同地より
大給松平乗久が入城。
元禄4年(
1691年)
大給松平氏が
志摩国鳥羽城に転出し、同地より
土井利益が入城。
宝暦12年(
1762年)土井氏が下総国
古河城に転出し、
三河国岡崎城より
水野忠任が入城。
文化14年(
1817年)に、後に
天保の改革を行った
水野忠邦が出世目的に
遠江国浜松城に転出を希望し、
陸奥国棚倉城より
小笠原長昌が入城、以後
明治維新まで小笠原氏の居城となった。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、払い下げにより建造物が解体された。明治10年(1877年)舞鶴公園として整備、開放された。昭和41年(1966年)文化観光施設として5層5階の模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された。平成元年(1989年)唐津市役所前に肥後堀と石垣を復元。平成4年(1992年)二の丸跡に時の太鼓を復元。平成5年(1993年)市役所付近に三の丸辰巳櫓が復元された。
玄界灘(げんかいなだ)は、
九州の北西部に広がる海域である。
大陸棚が広がり、
対馬海流が流れて世界有数の
漁場として知られる。
玄界灘のことを略して「玄海」(げんかい)とも言う。あるいは「玄界洋」とも書かれ
[1]、これを略して「玄洋」(げんよう)と呼ぶこともある。こちらは学校や団体の名称に使われる(
玄洋社など)。
玄海は玄界灘の省略記法であり、海域を意味する漢字が複数使用される「玄海灘」は誤記であるとされている。灘がない場合においては、玄界灘に起因する、あるいは同じ語源と思われる固有名詞には複数の用字がみられる。最も一般的な範囲として
福岡県宗像市の鐘ノ岬から
志賀島、
糸島半島、
唐津湾を経て
佐賀県唐津市の
東松浦半島までの海岸から、沖合は
大島、
沖ノ島、
長崎県の
壱岐、
対馬までの海域を指すとされる。東方は
響灘に接し、西方は
東シナ海、北方は
日本海に連なる。一方で、東端を
遠賀川河口まで、西端を平戸海峡(
平戸瀬戸)までとすることもある
[2][3][4]。
南側は全て水深200m以上の
大陸棚である。南西から北東に向かって
対馬海流が流れている。
新生代になってから日本列島の原型が形成された頃は
日本海は巨大な湖で、その当時は
朝鮮半島と陸続きであった。そして、
第四紀の頃に玄界灘にあたる海域が形成されたとされる。この玄界灘には未知なる海底
断層が存在しているとみられて
福岡市の
警固断層に関係する可能性が指摘されており、学術機関で研究や調査がなされている。
九州・
山口沿岸部の気候は温暖であるが、冬は
日本海側気候の特徴が現れる。北西の
季節風と
対馬海流の影響で雲が発生するため曇天の日が多く、沿岸部に雨・雪を降らせることもある。
歴史
漁業
対馬海流が流れ、世界有数の漁場として知られる。下関漁港、博多漁港、唐津港、呼子港においては多くの魚介類が水揚げされる(ただし下関港が面する山口県沿岸の海域は、玄界灘ではなく「響灘」と呼ばれるのが一般的である)。
唐津観光協会 はこちらで